地区一覧(C) あおば百景を探る会 |
保木の薬師堂・十社宮と消えた遺跡群たまプラーザ駅より柿生行きバスで保木薬師前で下車すると、道の向こう側に緑地が見えるが、そこが保木薬師堂と十社宮である。HACの駐車場を突き進むと、桜の木々に囲まれた広場の正面に保木薬師堂、左に十社宮そして右に自治会館がある。 左手の木製の鳥居を潜ると、小さいながら奥殿つきの十社宮の社殿がある。掲示によると創建は不詳であるが、江戸初期と見られ旧社殿は延享6年(1749)の造営と記す。「十社権現社」と呼ばれ隣接の薬師堂と共に祭祀が行われていたが、明治の神仏分離で十社宮と改められた。そして保木地区区画整備事業で社殿は移築改築されたとある。 祭神は (1)国常立尊クニトコタケノミコト (2)国狭植尊クニサヅケノミコト (3)豊斟淳尊トヨクムヌノミコト (4)泥土煮尊ウヒヂニノミコト (5)沙土煮尊サヒヂニノミコト (6)大戸道尊オオトノヂノミコト (7)大戸辺尊オオトノベノミコト (8)本多和気尊ホンダワケノミコト (9)大日霎尊オオヒルメノミコト (10)天児屋根尊アメノコヤネノミコトの十柱である。(1)〜(7)は天地開闢に係わる七柱であり、 (9)天照大神が、天岩屋にお隠れの時祝詞をのべたのが(10)天児屋根尊で、天孫降臨でもお伴をして中臣氏の祖になっている。 (8)応仁天皇は例外の感じである この十社宮は、府中の大国魂神社(六所宮とも呼ばれた)の「くらやみ祭り」に保木の大太鼓で参加したようであるが、どのような関わりがあったのかは分からない※。 ※その後大国魂神社を訪ねる機会があり、調べると武蔵国の総社で、本殿は一棟三殿の流造りで、中殿に大国魂大神、国内諸神、御霊大神を祀り、左の東殿に
右の西殿には
が祀ってある。いずれも国土生成にかかわる神々で、武蔵国の民衆に影響力をもった神社と言える。国土に霊魂の存在を認め、国土を神格化ているのは古事記・日本書紀の思想である。この点については十社宮も同じであるが、祭神は杉山大神ではない。 右手の天皇陛下御在位六十年記念と記す楠のひともとが印象的である。その傍の生け垣を分けて隣接の保木薬師堂に入れる。境内は十社宮より広く、正面から見ると、銅葺きの屋根が美しく、棟に立つ真言を意味する金色の梵字が光って神秘な雰囲気がある。 掲示によると、天明3年(1783)建立の方五間の堂であったが、昭和63年の区画整理で、移築しその際茅葺きの屋根を今の銅葺にしたとある。昭和50年の横浜市の文化財調査で、欠落した玉眼の穴から本尊内部の銘文が発見され、承久3年(1221)の僧尊栄の作と判明した。つまり鎌倉前期の数少ない仏像で、県指定の重要文化財に指定されそれ以降は県博物館で保管されている。 毎年9月12日には里帰りするが、その日に高さ85.2cmの檜の寄せ木造りの座像の優美な薬師像を拝観する機会を得た。鎌倉前期の作風で、運慶派の影響も少し受けていると担当官より聞いたが、薬師像が造られて、この地に安置されるまでの約500年間はとこにあったのかは不明である。最初からここにあることに疑問を持っていたら、やはりどこかの廃寺(不明)より安置されたという。 薬師像には寛文10年(1670)に四天王像が置かれたが、現存するのは二つである。また、享保17年(1732)に宮殿(厨子)の中に入れられたが、このような立派な薬師堂を誰が造らせたのか。当地には鎌倉道が近く、鎌倉もに近いので御家人の縁の者かなど想像をするのも楽しいものである。 境内の左手には、庚申塔の古いものから新しいものまで集められてあるので、銘を見ならどの様に変化したかを確かめることもできる。その傍に、境内を囲む木々のなかで一際大きい楠がひとつ、何故か十社宮と同じように立っている。 なお、この保木薬師堂の裏の公園を出ると急に一面が高台になって、1万年前の縄文早期から前期、中期の遺跡群が開発で跡形もなく破壊されて、美しが丘西1〜3丁目の住宅街に変貌している。この高台は早淵川の源流にあって、かっては縄文人が犬を連れて狩りをしていたが、今は現代人が犬を散歩の伴にして歩いている。青葉区の他の地域では、縄文遺跡には次の弥生、古墳時代と重層的に遺跡が出土しているが、ここでは弥生遺跡の出土がなくて古墳時代に続き、歴史時代は平安時代と江戸時代のものが出土している。 一般に古代文明は川の流域で発生し、上流から下流へと発展しているが、このことは早淵川についても言えそうだ。この源流の高台に縄文早期・前期・中期の遺跡があり、下流の江田に赤田古墳群があり、都筑区に大塚・都勝土遺跡があり、また都筑郡衙跡の長者原遺跡があると言う具合である。 しかし、保存されているのは大塚・都勝土遺跡だけであり、遺跡の掲示があるのも長者原遺跡だけである。開発第一でやって来たツケと言える。せめて遺跡のあったところには標識を立てるべくであると提言している。開発で遺跡があるところは調査があり開発が遅れるので公園になっていることが多い。この点に着目して、青葉区の公園と遺跡の所在地を比較し、半数以上が公園であることを知り、我が意を得たことがある。 保木地区を例示すると次の通り。
その他の公園も遺跡に関連在るものが多いので、関連する公園に発掘遺跡の標識を立てて概略の解説をすれば、郷土の古代文化を中心にした交流の場になるし、更に青葉区の古代への思いも深くなると思う。
(山本 文義)
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