あおば百景

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旗本の墓がある宗英寺

 市が尾駅からバスに乗り上鉄鴨志田停留所で下車し、道路の向かい側に渡って直ぐ左折すると、曹洞宗宗英寺・くろがね聖観音の標識があってまもなく山門が見え、その前には慰霊塔がある。

 余り広くない寺庭には枝を刈られた一本の銀杏の大樹が立ち、本堂へは舗装され両側には砂利が敷かれ、綺麗に箒目が立って禅寺の雰囲気がある。左手に標識があって、傍に横浜市指定有形文化財として庚申憧(こうしんとう)が一対、天蓋がかかって立っている。憧は旗と同じで、旗が石造物に変わったもので、石憧の庚申塔は稀な遺例とされ、銘は延宝10年辰とあるが、調べると延宝は8年で終わり天和になるので、天和2年(1682年)が正しいことになる。

 こういう珍しい庚申塔があるのも、開基したこの地の領主の旗本加藤氏に関わるのかも知れない。寺の左手の高台に古い墓地があり、その奥まったところに五輪の塔が三つ並び開基大樹院殿一柚宗英大居士と標が立ち、寛永7年(1630)8月21日享年62歳と刻まれている。寺名は開基した加藤氏の法名によると知る。

 徳川家康が江戸幕府を開いて1400年が過ぎたが、家康は関東には小田原、宇都宮、川越に親藩の大名を置いて守りを固め、後は直参旗本の給与地として、いざという時に旗本八万騎を動員できる体制とした。この鉄村に来たのが旗本加藤氏と言うわけだ。開府後直ぐに、鉄村の一部が加藤氏の領地になり、後に残りが旗本筧領となったが、再び加藤氏領と幕府直轄地の二給となった。開基の加藤景正は二代目であり、他の二つの墓石は子と孫のものであろう。

 旧中里村の寺に墓のある旗本領主は、鴨志田村の南慶院(臨済宗)に杉浦氏、小山村の保寿院(曹洞宗)に荒川氏、青砥村の蓮生寺(日蓮宗)に勝部氏となっている。

 なお、寺の入口の右手の高台にある森には金比羅神社がある。狭い境内には力石が残るが、今は滑り台とブランコが置かれて公園になっている。この神社は王禅寺と傍の金比羅神社と同じく、神仏習合時代の名残なのかも知れないと一人想像して楽しんでいる。

(山本 文義)