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明治の新興神道・天学教会の興亡

天学教会本院 入り口

 あざみ野駅よりたまプラーザに向かう欅並木道で、交差点の手前を西勝寺と結ぶ小さい道が斜め左に通るが、これが旧街道で、この沿道に天学教会がある。歩くには西勝寺交差点を渡って左に折れ、田園都市線のがード下を通って右手の旧街道に沿えば直ぐに細い参道に入る。両側に杉、欅などの木立が並び、小石の敷かれた路に落葉も残り、昔の参道の雰囲気がある。参道は一度横断されるが、次の小石の路は清められ、両側の欅と相まって荘厳さを今に感じる。そして突き当たりに天学教会の建物があるが、ぐるりと道に囲まれた広大な敷地であり、正に都市開発に成った街たまプラーザ5丁目の中に残った緑地である。

 郷土史研究家溝口潔氏によると、敷地は3000m2を超える長方形で、杉、樫、欅などか鬱蒼と茂り、中に150坪余りの本殿が建ち、付属の建物が巡っている。高い塀で囲まれ、樹木が繁って内部の様子は良く見えないが、蔵の屋根には落葉の積もり、壁も落ちたままで廃墟の感がある。

天学教会本院

 天学教会は明治初期の排仏捨釈の時期に、発生した新しい神道の一つのようで、かっては信者十有万を擁したという。教祖の服部国光は弘化4年(1847)2月の荏田生まれ。生家は今の山内郵便局の隣あたりで大工の子であった。最初は父と大工をしていたが、十代半ばで修行に入り、奥多摩の白石山、今の天祖山で荒行を行い、二十代の若さで天学教を開いたという異色の人物である。

 明治の変革期では仏教が廃れたので、新しい教えを人々は求めたこともあり、天祖山の麓、都下三多摩地方の養蚕農民、樵など多くの信者を得て荏田に帰った教祖は、「天地正開、神世至全」を唱えて布教に努めた。有力な地元信者の招きで現在地に明治21年12月に本殿を建てたが、四十歳そこそこと言う。どんな教えで、どんな魅力があったのか、とにかく苦しい農民らの心をしっかり掴んだのであろうが、筆者の関心はこの荏田の地からこのような傑物が輩出したことにある。

 しかし、昭和10年代になると国家神道が強力になり、また新しい宗教の興亡の歴史が示すように陰りが見え、また戦後の国家神道の失墜により大きな打撃を受けた。更に昭和30年代から始まった周辺の都市開発によって、信者の殆どが農業を離れたので、農民救済の天学教の基盤は崩れて今日に至ったようだ。

天学教会本院 石柱

 天学教会の建物の右手前に、天学教会本院と記して幟用の石柱が立ち、その奥に民家が一軒あるが、ここが三代目の教祖の住まいであろうか、ひっそりとしている。

 筆者は青葉区域の地元から輩出した傑物に関心があり、既に作家の広田花崖について触れ、次いでに自由民権運動に情熱を捧げた金子馬之助に注目し、ここに三人目の新興神道の教祖服部国光について書いた。青葉区域の自然の景観とともにその風土から輩出した傑物に今後も焦点を当てて筆を進めたい。

(文: 山本 文義, 写真: 山田 剛一)