あおば百景

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住宅街の中の松岳禅院と剣石地蔵

 真光寺長津田線道路が住吉神社前で交差する道を左折して、こどもの国線を横切る新道を渡り、直ぐにまた左折すると、寺の標識があり、そのルートでゆくと松岳禅院につく。正しくは曹洞宗大峰山松岳禅院であるが、何故か松岳院と略称される。

Shogaku-Zenin Shrine

 狭い山門につづき一対の銀杏の樹木があり、左に鐘楼が建ち、屋根に揚羽蝶の家紋が見える。本殿は鉄筋である。回廊をめぐると、周囲は住宅街である。都市開発で三町歩の寺領を処分し、山が削られ山寺から今のような町中の鉄筋の寺になったようだ。

Shogaku-Zenin Shrine

 もとは、青梅市の名刹、天寧寺(本尊は釈迦如来、創建は元亀年間・1501-04)の末寺の曹洞宗の禅寺として、元亀3年(1572年)に開かれれが、徳川家康の入府で奈良村領主になった旗本石丸氏の開基の寺になったようだ。墓地の歴代住職の卵塔域に旗本石丸三代の墓が並んである。中央に定次(父)、右に定政(祖父)、左に有定(曾祖父)となって、定次の子定勝が建てたことが伺える。

 住職は開基は石丸有定(曾祖父)と言い、堂内の三代の位牌を見せたが、三代の墓と同じ順番に法名が書かれてある。石丸有定は伊勢国司につかえたのち織田信長に属し500石を貰い、織田家と同じ揚羽蝶の家紋であったが、この奈良村の領主になったのはその子定政(祖父)の時であると郷土史家は言うので、有定の開基には疑問が残る。その子定次(父)は、大阪の町奉行に出世し2240石余を知行したという。河内の国安福寺に葬られている。

 これら三代の墓を建てた定次の子定勝は、奈良の盛円寺に父の供養のため梵鐘を奉納している(延宝7年=1679年)ので、この時に三代の墓碑も改めたのではないかと見られている。定勝の墓は台東区浅草の浄念寺にあって、後石丸家代々の墓所となっている。

Shogaku-Zenin Shrine

 堂内は真ん中に本尊の釈迦牟尼仏があるが、火災のとき本尊は持ち出したが台座は焼けたと言う。みな金メッキであったという。右コーナーに開基の石丸三代の位牌が置かれ、左手には剣石(けんせき)地蔵が安置されている。剣石地蔵とは聞きなれぬ言葉だが、ずばり言えば男根崇拝の石像である。縄文時代の石棒を思い出すが、子育ての神、子授けの神としてか、今でも触りにご婦人が来るというので、古いい逗子より出してあるという。

 住職の話では、もと瑞円寺にあったが、廃寺となり、この寺が引き継いだという。寺の火災のときには、持ち出されたというから、大事にされていたのであろう。

 なお、近くの住吉神社は旗本石丸氏の寄進を受けて村内の欅で新築し、彫刻が多く、立派な社殿であったが昭和47年の大火で全焼し、49年に新築されたものである。御神体は銅鏡、祭神武内宿禰と言われるが成合の子の神社も御神体は鏡、鴨志田の甲神社の御神体は石棒であることを考え合わすと、田奈から鴨志田への地域には何か古い習俗が残っていると感じた。

(文: 山本 文義)