あおば百景

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寺家ふるさと村と熊野神社

 甲神社の傍の道を行くと、直ぐ田や畑がひらけて青葉区で有名な寺家ふるさと村に入る。田んぼの中の小川に沿って道を左に曲がると、左手に四季の家、正面に寺家ふるさと森公園と右手につづいた丘陵の森が見える。これが寺家ふるさと村の風景である。

 四季の家に入ると、玄関フロアーが郷土資料館コーナーになっており、寺家の歴史、野草などの植物、野鳥、狐たぬきなどの小動物、昆虫、淡水魚などを知ることが出来る。特に「地頭筧房政苛政につき鉄村寺家総百姓血判のうえ傘連判状」とある古文書は、凶作の最中で御用金を仰せ付けられ、誰が責任者が分からぬ傘連判状を提出したもので、民衆の憤りが伝わる。また、寺家村と隣接の鴨志田村との境界争いの訴訟資料もあり、江戸時代の村の生活が実態が分かる。

 受付で散策コースの「散策マップ」を貰って、好きなコースをたどり、資料館で得た草花、野鳥を探してみては如何。掲示板によると、専門家による自然観察、野鳥観察の会があるので、調べて参加すれば一層楽しいものになる。筆者も自然観察会を体験済である。

 小高い丘陵の森が寺家ふるさと森公園である。急な石段を登ると直ぐ前に熊野神社がある。足の悪い人はスロープの入れ口から入れるが、この本殿は火災で焼けて再建したばかりで未だ新しい。碑の由来記によると、創建は不明で、祭神はイザナキノミコト、イザナギノミコト、オオヒルメノミコト(天照大神)である。

 もともと、この神社は鎌倉の御家人安達氏の一族であった大曽根氏が、港北区師丘にあった熊野神社を、一族が領有することになったこの寺家に分社したもので、もとは寺家の入口の東円寺にあったが、焼けてこちらへ移したものである。そして、明治の神社統合令で、神明社(天照大神)、御伊勢社、山王社、金比羅社を熊野神社に合祀したものであるが、碑の由来記には触れられていない。改築の寄付名に、大曽根一族の名前が連なっている所以である、

 境内の端に、大正十年十二月と刻む「村社熊野神社昇格記念碑」があることから、それまでは郷社とか社格は低かったらしい。合祀した社には、本来は合祀された小さな社が回りにあるはずであるが、鉄神社のようにそれはない。

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 巡り名木古木のモミの大樹をみて、神社の裏手にあるふるさと森に入ると、ブナの尾根道で、適宜休憩場所があり、桜の花見も出来る。左に下るとつり堀に行け、右に行くと梅林に出るなどコースが分かれて楽しめる。右手は谷戸になってその間は田んぼで、運営はボランティアが行っているようだ。向こうの谷戸沿いを行くと、資料館で覚えた季節の草花が見られ、左手に水車小屋もあり、田舎の雰囲気に浸れる。更に左の森を小径に沿って行くと、左手に寺家古墳群の一つの横穴古墳をみることも出来る。

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 元の道に戻って歩くと、左手に郷土文化館があり、陶芸などの展示があり、レストランもある。裏手には陶芸を焼く窯もある。自然のなかの文化的な憩いの場と言えよう。

 春の蓮華の花咲く頃は、田んぼが公開されて、蓮華の花の上での家族団欒の光景は見ていて和むものだが、ここにも後継者問題があって、寺家ふるさと村を守ることも大変のようだ。田んぼの中には、梨園があり、柿やミカンも見える。また訪れる人達のために、いろんなお店も増えている。

 甲神社からの道に戻って、左手に曲がり、だんご屋を目指して歩くと、左手に自治会館がある。熊野神社があった東円寺の廃寺跡である。王禅寺の末寺であったが、熊野神社と一緒に焼けて廃寺になったのか、今も墓地は残り、自治会館のめぐりに石碑が幾つか見えそれに刻む年号から、後北条時代も未だ都筑郡と律令時代の呼称を使っていたことを知ることができる。

 その先をゆくと左手にだんご屋がある。テレビで紹介されて有名になったせいか、もう売り切れていた。確かに道々の表示に売り切れの表示はあったが、店から出てきた主人に聞くと、老夫婦が営むので、需要があっても能力がないとのことで、予約しないと手に入らいようだ。とかく、調子が良くなると無理をして失敗するものだが、能力に応じた生き方を改めて教わった思いがした。

 寺家ふるさと村には、田んぼに、川に、森に、神社がある村の原風景があり、付随して必要な施設も用意され、まさに青葉区民の憩いの場である。

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(文: 山本 文義, 写真: 山田 剛一)